音脈 Vol.58|東京文化会館公演情報 2015年4月~6月
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11音脈2015 SPRING木之下晃のレンズは語る追悼 遠山一行 元館長©Akira KINOSHITA大野和士(東京交響楽団) 1988年1月11日 東京文化会館木之下晃氏が、2015年1月12日にご逝去されました。今号の原稿が、木之下氏のご遺稿となりました。木之下晃氏のご冥福を心よりお祈りいたします。東京文化会館大野 和士写真・文/木之下 晃Kazushi Ono都響第5代目音楽監督就任東京都交響楽団(都響)が創立50周年を迎え、第5代目音楽監督に大野和士が就任。今回はその大野について紹介したい。 私が大野に初めてカメラを向けたのは、1988年1月のことで、未だ27歳だった。彼は86年にブダペスト国際コンクールで第4位。そして前年の87年にトスカニーニ国際コンクールで優勝を飾り、88年からザグレブ・フィル常任指揮者就任が決まっての披露演奏会が東京交響楽団特別演奏会として東京文化会館で開かれて撮影した。これが大野の事実上のデビューとなった。 大野は1960年東京生まれ。父親はコンピューター・ソフトのエンジニアで会社を経営。母親は裏千家の茶道家。兄が一人いてフランス文学者。小学3年から横浜住い。6歳の頃、兄がピアノを習っていたのに刺激されて弾きはじめた。中学1年の頃から近所に住んでいた作曲家の安藤久義氏に作曲を師事。中学時代はブラスバンド。彼の音楽活動は神奈川県の名門進学校である県立湘南高校に進学し、合唱部に入ったことから始まった。1年生の時、20人だった部員を2年生になると彼の勧誘で50人に増やし、3年生になるとなんと90人の大所帯に育て上げて『メサイア』やショスタコーヴィチの『森の歌』などを彼の指揮で歌い上げた。その時にピアノを弾いたのが1級下の上岡敏之(次期新日本フィルハーモニー交響楽団音楽監督)だった。上岡は「大野さんの統率力は抜群で、女生徒の間で人気の的」と述懐している。 78年に東京藝大指揮科に入学。横浜から上野に出て、東京文化会館の前を通って通学。その頃、時折オーケストラのリハーサルに潜り込んで、摘まみ出されていたと云う。大学の卒業演奏で藝大オーケストラを振って、初めて東京文化会館の指揮台に立った。 82年に民音コンクールで第2位に入賞。斎藤秀雄賞を受賞。それが契桟となって都響や新星日響、京響などの音楽教室を指揮。84年に都響のファミリー・コンサートを振る。その時のソリストが東京藝大で同級生の小山実稚恵だった。 86年にミュンヘンへ留学。バイエルン国立歌劇場でサヴァリッシュに師事。前記したようにその86年と87年にコンクールで受賞。それが縁で、88年ザグレブ・フィルに招かれて6年間在籍。90年から音楽監督になり、途中“内戦”に遭遇しつつ、マーラーの全曲を指揮。90年から2年間、都響の指揮者を兼任。90年から東フィル常任指揮者となり『オペラ・コンチェルタンテ』を企画。オペラへの足どりを拓いた。96年バーデン国立歌劇場音楽総監督に招聘。ワーグナーの『指環』などワーグナーのオペラを掌中にした。2002年にベルギーのモネ劇場に音楽監督として移り、現代オペラを掘り下げ、その存在が欧米のオペラ界から注目。ドイツのメジャー・オペラハウスをはじめ、スカラ座、MET、グラインドボーンなど頂点を歩く。08年からフランスのリヨン歌劇場での活躍はご存知のこと。 大野は現在も本拠をブリュッセルに置き、時間がとれるとそこに戻り、オペラの台本と取り組む。今、大事なことはオペラの台本探しとのこと。 趣味は森林浴と水泳。バタフライが得意で、彼の胸の厚さはまるで水泳選手みたい。好きな作家の一人がイギリスのカズオ・イシグロで、彼の『日の名残り』のオペラ化を夢みる。好きな画家に17世紀のスペインのムリーリョがいる。彼は今年の9月からスペインのバルセロナ響音楽監督にも就任する。 身近に置いている本は、梅原猛の『京都発見』やドナルド・キーンの『明治天皇』など。

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