東京文化会館 東京文化会館50周年記念
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■設立発起人会が活動した時期
【1952年(昭和27)12月〜1956年(昭和31)10月】

 1952年(昭和27)12月27日、東京商工会所会頭 藤山愛一郎氏より、都知事・都教育委員長あてに、「コンサートホールの建設に関する意見書」が提案された。趣旨は次のようなものであった。
 「戦後、国民生活の安定に伴い、欧米より一流のプレイヤー等が多数来日し、音楽文化が活況を呈している。しかし首都東京に満足な演奏会用施設が無い。よって会議所は各界の協力を得て、近代的コンサートホールの建設を提唱し、実現を期待する。その為、以下の3点を東京都に提案した。(1)建築計画を策定し、運営するため都の関係者や学識経験者を交えて設立準備委員会を設立。(2)建設資金として都の予算を付けること。(3)建設用地を確保すること」
 この提案を受けて都知事安井誠一郎氏は、関係者と協議し「ミュージックセンター設立発起人会」を結成することとし、1953年(昭和28)5月6日に財界・音楽・建築など各界の代表31名からなる「ミュージックセンター設立発起人会」が発足した。
 発起人会において示された「ミュージックセンター建設案概要」では、(1)音楽の殿堂であると共に、国際会議場とも成りうるもの (2)建設地は都心に近いこと (3)規模はA案:建坪1660坪 建設費10億〜20億、B案:建坪2406坪建設費10億〜14億の2案が提示された。
 その後詳細な検討を経て、1954年(昭和29)2月8日の第3回発起人会総会で、候補地については、東京都の所有地である上野公園内が最適であるとし、発起人会から東京都知事あてに建設に関する協力依頼文が提出され、同年12月7日に候補地として上野公園内竹台高校跡地とすることが決まった。
 1955年(昭和30)3月までに開催された発起人会で、以下のような建築計画案が纏まった。建設費10億円、敷地1500坪、地下1階、地上5階、大ホール3千名・小ホール7百名収容、練習室、会議室、音楽ライブラリーを含む音楽の殿堂とする。ホールの性格は純音楽を主とし、オペラ・バレエの上演を可能とし、国際会議場としても利用できるものとする。また建設資金は、財界4億円、放送界2億円、都3億円、起債1億とされた。
 同年後半には発起人会事務局内に技術研究班が設置され、「ミュージックセンター設計基本計画案」が作成された。1956年(昭和31)には本案を元に音楽関係者やオペラ・バレエ関係者との懇談会や、様々な関係者の団体から意見を聞く会を開催したが、「ミュージックセンター」の性格を巡り、「純音楽を主とし、オペラ・バレエ上演を可能とする」ことについて、議論が巻き起こった。この背景としては、当時世界中を見ても、純音楽とオペラ・バレエの両方に完璧に対応できるホールは皆無に等しかったためである。
 こうした状況の中、1956年(昭和31)7月、発起人会代表者会議で、東京都知事安井誠一郎氏から、ホール建設が開都五百年記念事業、の一環となる可能性が示された。同年9月20日大東京祭実行委員会において、開都五百年記念事業としてミュージックセンター構想を骨子とする「記念文化会館」の建設案が採択され、同年10月1日・都民の日に、正式に発表された。